2011年11月27日日曜日

バンドブーム?

テレビで11回目の「おやじバンドバトル」を見た。趣向はバンド決定戦で類似な基準で重なっているが、4,5回ぐらいは見ているかも知れない。そして段々つまらなくなってきている。ユニークで個性溢れる音楽を楽しむ形体がどうも、似たようなパフォーマンスを引き継いだり取り入れたりの履修が形骸化しているかのようだ。少し前には50から70代のビッグバンドや吹奏楽延長のバンドや女性だけのロックバンドとか多彩な内容だったのに、元気な40代に占領された感じがある。僅か8バンドの紹介であったが、全国各地にはアマチュア・ミュージッシャンが、むんむん悶々している。ちんどんのようであっても、ださいであってもそれは楽しい。
2005年12月、上野公園の美術館前で一人で打楽器やサックスや和太鼓やらを演奏している、何人かを見た。それは鍛錬でもあり、学費稼ぎでもあり、コミニュケーションをはかる留学生?でもあった、そのプレイはテレビの画面よりも稚拙ながら熱いメッセージが伝わったのは紛れもない。12月5日の東京都美術館は混雑でゆっくり鑑賞することは叶わず、片隅に置かれたベンチでどうにか睡魔を抑えた。
《2007年11月26日(月)ノート》

2011年11月23日水曜日

都下、奥多摩

宇都宮で挫折して(すぐ、挫折する)、実家に戻り7月後半のお祭りで癒されたら、もうゆっくりしていられない、当然のこと。就職せねばと夏の暑い盛り、都内方面をバス、汽車、電車を乗りつないで探し回った。現在のような、折り込み広告は全くない。職安と、虫眼鏡で探すような新聞の小さな小さな三行広告(もちろん大きいスペースもある)が頼りだ。高卒後の初めての夏、苦節の始まりであるのは確かだ。家業は、製菓・菓子小売業の、僅かの縁で京橋にある大きな会社の、多摩営業所に入った。パン屋である。工場は他にあり配達の中継点としてそれは拝島にあった。初めは、パンの仕分け作業、夜勤だった。次いで、助手席での配達業務、そして事務所での仕事、3年有余で製造以外は全てこなした。配達での運転手は、専門の運送会社で、強面もいれば、偏狭もいてと、配達先のお店の人との多彩な表情の受け答えは、まさにそれぞれの模様で、いくら掴んでもとらえきれない量で押し返してきた。めまぐるしい変わりようなのに、この地の取り残されるさまも見える。やはり、過疎であるのは否めないし、時間の進みようが、やはり秀逸、と讃えてしまう。この往路、復路が楽しかったのは言うまでもない。 先日11月14日、日の出町の「イオンモール」に、紅葉狩りの帰りに寄った。入れるわけがない、今日23日がでっかいオープンなのだった。  往時、砂利道も多く、周囲を隔てるものは、樹木やはるかな里山ばかりなのに、今は、その後にそそりたつ建物さえみえて狭さを感じる滝山街道。その滝山城跡辺のモノクロを一枚挿入。《2007年11月23日(金)ノート》

2011年11月20日日曜日

紅葉狩り

東京、三多摩に拠点をとっていたのは1960年代中頃から70年前半の僅かな時間でそれは、昭島、清瀬、分倍河原、東府中と引っ越しと転職を繰り返した10年足らずの一人暮らしであった。そして、職場は、拝島、初台、五反田、渋谷松涛、神楽坂、武蔵野台と変わった。特に松涛の時は、出張作業が多くそれは都内(道具箱を抱えて電車で行く)のみならず関東近隣、長野、新潟までの多岐にわたり楽しいものだった。まあ体のいい"パシリ"ですが。  運転免許なしだから(助手席やらトラックの荷台やら)、このうえなく観光気分で?   11月14日(水)の奥多摩湖までの回遊コースは、まさに復刻版のようだった!とは言え、思い出すだけで、"うるるん"するものは何もない。体の中に記憶がよみがえるのみで、なるほどと納得するだけ。40年は全くの空白ではなく、間は埋めるように、少しは高尾や八王子、御嶽山と訪ねたこともあった、そのせいだ。 今回、紅葉の季節にであえた。《2007年11月17日(土)ノート》

2011年11月19日土曜日

界面

《1980年11月19日(水)》
上に兄がいて、下に妹がいて、それがぼく(この時36才)の兄妹だ。2人とも既に結婚している。独身主義者ではないから、ぼくの現在は情けない境遇のように思えて悲惨な気分になることも、たまにはある。
たまに、というのは極く稀で馴れを多くしているから平気で満喫していられるのかも知れない。
妹も、今では母親で、幼い頃の様相はだいぶ影を潜めた気がする。特徴的な、それは癇が強いということだったか。もちろん酷い時には、癇癪を起こしていたわけだ。
かんしゃく持ちか、否かは不明だが、確かに癇の強そうな女性(!?)の絹裂き悲鳴を、この頃聞き始めている。
自己のペースを乱されそうな周囲の卑猥な純真さに、孤立した生真面目さが、浮き出したための、おののきに似た悲鳴だ。その声の反響によってまた惑溺している気配も続いている。
こうした罹病体質は、当然の・はしか・みたいなものかも知れない。
界面を支えるものは、たった1枚の壁であり、ガラスであり、自由を交歓するものは、スウイング機能を持った1翼のドアである。こちらを内界とすれば、そちらは外界。空気の流れに僅かの異は認められるかも知れぬが、概ね似た世界であることはまちがいない。
幻視と耽溺の異常さに依って、自由さを奪われてしまって世界そのものが、覚醒剤の如き効を発し、自転、反転、渦巻きなどの撹拌を繰りかえし自身のエゴのみが、受容されているような錯覚の恍惚感に沈潜するから、一種の罹病、かぶれが始まる。
危険分子の誘惑に、とまどいの甘えを見せる時に、そうした絹裂き悲鳴が漏れる。
みな、同じような経緯をたどっているわけではないが、陽性、陰性、或いはもっと複雑な人間がさまざまな形象を描いて、迎合、別離を演じている。
熱を移動するわけだから、どちらをも哀しみ、歓びの濃淡が、感情の谷間を無雑作に通過する。それを見つめることは、心を披瀝することなのではなかろうか。

2011年11月17日木曜日

健在

と言っても2001年のアルバムだが。アーチィ・シェップのことだ・・・
 最近はそれほどの追っかけ?(もちろん行動はしない)ではないが、7,80年代は新しいLPがでるたびに注目していた。ビル・ディクソン(トランペット)とのサヴォイ盤から、BYG盤の多作期、そしてインパルスの“時代”傾倒期、そして近年の豊満なアプローチと。 実はこのところのヴォーカルの多いことや、スタンダード曲のシェップ節に豊満を経て飽和に辿るのかと、小さい失望を潜ませていた。 が、2001年のこのアルバムは、僚友再会す、の感激新たなシェップ堂々の、演奏が繰り広げられる。変わったなと!思うサックスのサウンドもあるが、表現は素朴なかつてのグループサウンズそのものだ。ラズエル・ラッドのトロンボーンに、これまたグレチャン・モンカーⅢのトロンボーンとくりゃ、厚め、濃いめのシェップワールドです。「ワン・フォー・ザ・トレーン」の再現でしょうか、自身のピアノも入り、enja期の豊饒な表情も繰り出せて武骨でよりもどし、ゴリ押しのスタイルはワルクねえよな・・・という感じ。円熟というかもしれない。Jeanne Leeに捧ぐと記してある。なるほど・・・。アルバムタイトルはRoswell Rudd And Archie Shepp, Live in New York.です。  《2008年11月16日(日)ノート》

2011年11月14日月曜日

なみだ

《1979年11月14日(水)》
親父が死んだのが、昭和39年だからもう15年も経っている。直腸がんで、臨終時には既に意識が全くなく、枯れ木の如き、朽ちて息絶えた。ぼくも馬鹿で、こらえて涙の一滴すら眸に滲ませることなく、淡々と親類縁者の中にいた。それが何故か、葬式の日には菩提寺にて読経が進められた途端に、次から次からこみあげてくるは、熱い涙がとめどなく、嗚咽を抑えるのに精一杯であった。没日が5月25日だから、26か27日のことだったのであろう。それでも親父の見事な死にように、感激を混濁させてぼくは不貞な人間だったようである。
しかし、親父はぼくの中に在って、ずっと生きていた。死後も何度となく夢の中に現れて、不思議界を作っていた。5,6年はまちがいもなく、夜の訪問者であった。・・・・・当時はまだ、土葬で高く盛られた砂山が棺箱の腐敗と共に、一気に崩壊し、平たくなったと同時に、勇ましげな魂も消えたのだろうか・・と思ったりして・・・・・その後ぷっつり、ぼくの夢の中に登場することはなくなって、死んだ親父と生きているぼくの間の、悩ましげな父子関係やら、さまざまな因果関係を払拭してもいい許される時間を得たと思っていた。
春秋のお彼岸に帰ることもしないし、お盆や命日に墓参に帰ることもしないし、田舎の身内から見れば、バチあたり者だろうと思う。もちろん、田舎では毎日、または毎月の命日(25)には、仏壇を清め、それらしく燈明を点し・・・・・常に胸の裡に於いて、供養することは不可能だから、毎日の形式的な繰りかえしによって、不徳な面をカバーしていると思うのだが・・・・・それさえ避け拒み、もういつでも親父を超越することのみに、餞が本当の意味であるのだと信じ込んでいた。
これからも、ただ意欲的に、前向きで生きることすらないと思うのは、死んだ父、元気な母に対する、または自分の広い周囲に対する、愛しみである。
それほど、大仰に構えずとも、父のことなど忘れていたのである。
それだからこそ、夢の夢たる由縁があると思うのだが、昨晩何故か、そっと忍び寄り真っ暗なスクリーンに親父が戻って来た。幼い頃、親父が頭を丸刈りにしてくれた。そんな想い出ゆえか、夢は・・・・・長めの髪をみて、襟足部をカットしてくれて『髪が伸び過ぎて煩わしかろう・・・』ほどの言葉を(憶えているのは)放って消えてしまった・・・・・親父がしてくれたのは、バリカン専門だから鋏のシーンに登場するのは、へんてこであるけれど前述の如く、夢たる由縁だからいいとして。
どうして今頃、親父が夢に出てきたのであろうか。関連したものは近頃、何にもないし、と思うのだけれど、親父のまぬけめ。あほ!

2011年11月11日金曜日

はっぴぃ

《1979年11月11日(日)》
このところ何となくいい気分が涌いてくる。
過去をふりかえってみて想いだしたくないものも、多々ありそうであるが、数度代えた職場にも、それぞれの憤怒と闘いながらも、その都度ベストを尽くしていたことの、種々のトラブルや嘆きが、懐かしく胸にこみあげてくる。今、そんな感慨を導いてくれるものは、みつかいどうプラザの工事関係で、内装業者がここ(=MUSE)を訪れて、ほんの10年前当時の自分の姿を甦らせてくれるからである。あの頃は、出張やら、泊り込み作業等の毎日だった。日曜も、休日も無にして現場まわりだったのである。
何となく、いい気分・・・なのはそれだけではない。妬ましいといって拗ねてみたくなるのは、周囲が小春日和の晩秋の柔らかい陽射しにも似て、ほんのりおだやかな、そして暖かい雰囲気に染められつつあるからである。祝福も寄せて嬉しい気持ちである。
ほんの僅かな、我がままや難題をほふれば、ぼくにまつわる生活感覚は元来、おめでたく仕上がっている。
別離が複雑な煩悶や、屈辱の解析であるとすれば、出会いはなんとさわやかな恥じらいや、とまどいであることよ。初めが偶然とはいえ、そのきっかけは、常に伝説めいて思いの量を測るときに、確認のための里程標になる。人為的な、善意がからんでいたというよりも、そうなる全ての力に命が、からんでいたと解釈してもいいのではなかろうか。
これから、いい季節です。

2011年11月8日火曜日

Indian Summer

《1980年11月8日(土)》
小春日和(Indian Summer)の柔らかな陽射しの谷間に、またやって来たいやな季節。
寒いから、いやだというのではなく・・・もっともぼくには関係は乏しくなってきているが・・・・・季節の開閉時に訪れる悲喜交々の『年中行事』を迎えたという、自身の安易な期待感も混じっている。
就職とか、進学というのは、1個人の問題に留まらず、最小の社会を形成する家庭を基盤にしているからであろう。いや、多くは家庭より放たれて、家庭に戻るような考えを持っている。
俄かに持ちよった防衛問題に詳しい若者がいる。もちろん興味もあるのであろうが、この考え方をつきつめると、保守と安全に集約されそうな気がするのである。そして保全を成している根幹は、家庭にあるという無意識な潜伏観ではないだろうか。
音を一つの主張として、楽器を奏しているならば、テクニックやセンスはいくばくかの進展を望めようが、音楽に対峙する臨み様は、自身の精神性を越えることは、あり得ないと思われる。
価値観が多彩になり、溢れ出している世の中です。ものは考え方・・・かも知れない。だから、このままで良いと思えば、そうすればいい。(いずれ、ナチュラル・カーブで曲がることなど、予見することも出来ぬ) しかし、変えながら意識的な試みを施さないと、手の届かない真理のあることも事実だ。

2011年11月5日土曜日

表情

《1979年11月5日(月)》
饒舌と寡黙。そのどちらも豊かな性格をもっている。時には、陽気に、そして陰気に。ふだんから物静かな人が、急に喋り過ぎたり、逆に派手な人が黙りこんだり、そいう身辺事の変化は多くある。それぞれの問題を抱えこみ、悩みを負うて当然のことである。自分自身の問題ゆえ、操作しているのであるが(あるいは、感動とか、ショックのために自然そうなってしまう)、多くは饒舌なり寡黙に変わるのは、相手に与える不躾な威嚇である。威嚇でなければ、相当な照れであり、さぐりであろうか。沈黙は美徳なり、などの諺があるが、ともかくも饒舌も寡黙も、性格を超えて度を過ごし、故意や策意を顕著に明らかにしだすと、これは立派なお節介であり、なめらかな舌の回転のみならず、美徳といわれた貝の如き、固い閉ざし方にも罪なものがあるかも知れない。

2011年11月2日水曜日

それぞれ

《1981年11月2日(月)》
ある日突然、ジャズが好きになる。
そのきっかけは、千差万別であろう。
高校1年生が、ジャズを聴くのは珍しい。
いまでは、ジャズといってもフュージョンなども含めて考えているから門戸は開放的であるかも知れないが、主流派ジャズとなると、ポーズが優先しないと、或いは無理なのかも・・・・・。
その1年生が、トム・スコットの「タクシー・ドライバー」を聴いてから、のめり込むようになったという。マイルス・デイビスのCBS盤を集め、コルトレーンの「バラード」「至上の愛」をと。やはり抵抗はあり、スタッフやスパイロ・ジャイラに移行しつつある。・・・・・という。
それも納得。
快感というのが感触から導かれて、得られるものだと考えれば、より直接的なものが、POPS系、ロック、ジャズだと思うが、いずれの世界にもそれらの中に、安易な過程と終着駅をもったものが必ずあるということだろう。

2011年10月31日月曜日

友人

《1979年10月31日(水)》
10月29日(月)、上野11時49分とき11号(特急)に乗車。上越国境をぬけ、越後湯沢へ。長い長い、そして暗いトンネルを抜けると、上越の山なみに囲まれ、雪国の舞台にもなった当地に着く。少し肌寒い風が通り過ぎる。歩くこと10分。高原ロープウエイの駅に着く。ロープウエイから下界をのぞく。静寂な世界が開け、あたりの山脈がにぎやかな街をそっとつつむ。まだ紅葉には少し早すぎたけど、うす紅色の葉が山頂をぬりつぶしている。
町営国民宿舎高原ロッヂに宿をとる。200余名収容の宿に宿泊者はたった2名。さびしい宿だったけど、管理人のあたたかいもてなしと過剰とも言えるサービスにあたたかい一夜を送ることになった。
個室の窓からながめる下界の美しいネオンが一段とさびしさをさそう・・・・・。
10月30日(火)、早朝より研修会。
「全国教育財務担当者研修会」という名の事務研修会。

夕刻、越後湯沢駅のプラットフォームで特急とき○○号を待つ。
周囲が山にかこまれ、初冬の風が肌をつきさす。
さびしい街とのお別れ・・・・・時の流れもこのように。
自覚せずにこのようにすぎさってしまうもの。・・・きっと。きっと。

仕事とは言え、本当に心さみしい旅であった。
知らない街を訪れ、孤独感をあじわった一日だった。

11月上旬までに仕事の整理がついたら、11月下旬頃、旅行をしたいと思っているが、まだ行き先不明です。
まだ一度も、訪れたことのない山陰方面を旅したいと考えています。
(1979/10/31 H.Honda氏ノート)

2011年10月29日土曜日

満杯

《1979年10月29日(月)》
頭の中や、心の中が錯乱状態で、満員になってしまうことがある。
きのうが、そんな日だった。
久しぶりに、外の陽射しの中で機関銃みたいな「Funky Little Queen」を聴かされたせいだろうか。或いは、失調を訴える音楽に、馬鹿にされたせいだろうか。そんなことではなく、1.5Kmほど歩いた生で疲れているのである。あほな、肉体よ。
疲労を自覚しているところに、余計な思惑が送られてきて収拾がつかなくなってしまったのである。みみっちいのかも知れない。すぐ飽和して表現することで、また第三者の介在を認めることで、自分なりの納得をしようとしている。少・汚濁精神が善意風を吹かして流れているのかも知れない。
PA装置が、整っていないことを、棚に上げて自分の口から放り出される、邪推や誤推で、懐疑や猜疑に箔をかけ、おのれの、ほずれを繕うことを棄権していたのではなかろうか。そのへんのところを執着して考えていたら、頭はキリッと冴え痛み、胸はキュッと音するように緊めつけられた。
なぜに・・・・・。

2011年10月27日木曜日

平泉

10月25,26日久々の遠出。妹の提案で、東北の旅に参加。相変わらずの義弟の活躍、運転で、2日間は終了した。
さすが、今年世界遺産登録なった平泉の毛越寺、中尊寺は、深遠、重厚、を表出させ凝視させた。
そして、この時期の紅葉は格別で、雨模様にたたらなければ、見事なグラデーションは更なる釘付けを促す。

2011年10月24日月曜日

客層

《1979年10月25日(木)》
きのうは(1979/10/24)、珍しく女性の来ない日だと話していた。6時近くなっても零で、これは、と変な予感を働かせていた。というのは、何か空気の流れが悪いのではなかろうかと、1人代表して卑屈な気分に浸っていた。度を越して言うと、険悪な雰囲気のように思えたのだ。情けないほど下衆の勘ぐりである。外部の数Kmも離れた地点を右往左往している、或いはもっともっと遠方から送られてくる無邪気な、人泣かせのパルスに依って、沈滞していると思ったのである。その諸々を換気扇によって一掃することは可能だが、あまりに荒療治で無粋。しばらくの間傍観ポーズ。 
Takayamaさんたちテニス部員6人の群れで、殺気、色気乱れて撹拌状態。クリームになり層。逞しき女子たちよ。

2011年10月21日金曜日

看板や

《1982年10月21日(木)》
月曜日に(面接か、職探しか)行ったのは、松戸上本郷のNアート(株)であった。ここは、五反田の葵工芸を想起させた。規模は明らかに葵工芸の方が上である。作業場を見ても、事務所内のざわめきをみても、Aクラス対Cクラスの差はあった。しかし松戸では、ピカ一かも知れない。たまに職業別電話帳なんかの広告のセンスの良さ、大きさなどを見ていて、現実に眼にしたりすると、その落差にがっかりしたりする。もちろん外見や規模の大小でないことは、肝に銘じているつもりなのに、手っ取り早いというか、安易な判断をしてしまう。よくないことだ。と、そうは言っても難しいことだ。
その適例が・・・・・。
昨日(1982/10/20)、野田の職安で紹介を受けた、千葉ビニロン工芸に電話をして面接に出かけた。柏で乗り換え、豊四季で降り、場所を探すうちに、30分余でやっと見つけたところが、印刷所というイメージよりも工場の頑丈さが感じられて行かずじまいで、通り過ぎたまでであった。こうなると、結局は規模よりも業務内容に依るかもしれない。大きい、ビニロンのロールを抱えて印刷するという、その音感に抵抗を感じてしまったのかも知れない。小さな町工場だって、いいと思っているのだが、やはり好ましい仕事をしたいとは考えている。

2011年10月15日土曜日

ジャズの街

 先日(2007/10/06)の横浜は、紛れもなくジャズの街というイメージで、それは昔から今でもしっかり定着している。
そのジャズ・プロムナードのプログラムを見ていて思わぬ名前に出会った。岡田嘉満さん・・・宇都宮をジャズの街として異論はないだろうと?(ファンだから、餃子の街以外の視点がある=もちろん渡辺貞夫さん・・・の)思う。2001年栃木会館ホールで録音された、宇都宮ジャズライブでの若いテナーマンが、彼。流暢に吹奏していた印象が強く、モード曲を快調なテンポにのり、際立っていた。翌2002年の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」でも成長を遂げたプレイを披露していた。で、横浜では谷口英治セクステットに名を連ねていた、がそれを聴いていないので内容は把握できないが、プロとして既に活躍しているんだなあと嬉しい気持ち。《2007年10月11日(木)ノート》  (数年のち、つむぎの郷サウンドフェスタ「結城」にてヨシミツさんの演奏に接しました が、何故か思いの丈がしぼみました、世界の広さでしょうか・・・?)

2011年10月12日水曜日

ほこさき

《1982年10月13日(水)》
・・・・・しかし、いろんな世界があると、つくづく思う。そして、この情け容赦のない言葉の往還するところが、いちばん身近でありながら、生死を分別する場所になっているのが辛い。熾烈さが愛の深さを象徴していると言うのなら、直接的反射で応えられるというのに。
もはや、時代は逆行。当初から相容れる土俵などなかったのかも知れない。それを熟知しながら、さぐられていたと邪推したくなる。だから解決するものは、結局 金次第かなと思うわけだ。ぼくの世界は存在性も乏しく否定的だけれども、別の世界では存外、大手を振って罷り通っていると言える。彼らを通底しているものは、金にも似た、僅かな知識から頼れる可能性は大きいが、くくりきれない異質を認める、あるいは放任しておく個立感を持たない。孤立感と書くべきであった。しまいは、どうしたって孤りになってしまうのだ。そこが出発だった筈ではないか。

2011年10月10日月曜日

watarase

横浜(2007横浜ジャズプロムナード=10月6日・土)で俄然火を噴くようなソロをとっていたのは、ピアノの板橋文夫氏だった。彼は栃木県足利出身、有名なアルバムに「わたらせ(渡良瀬)」がある。 と言うわけでもないが、昨日、渡良瀬遊水池に赴いた。春とは少し異なる方向で、汗ばむくらい歩くことが出来た。まだ秋の色合いには早いという気がした。渓谷の流れを見たわけでもなく・・・、谷中村役場跡地や、遺跡の標識をちょっと?見ただけで「わたらせ」の激しいピアノ音を思いめぐらせ、過去の歴史の変えようもない悲惨な事実に、胸がさざめく・・・単なる自己満足の勝手な拡大解釈ですが。 元に戻って、駐車場近くの芝生の公園でみた、花をピンナップ。  《2007年10月11日(木)ノート》

2011年10月6日木曜日

お土産は?

朝霧ジャム・・・なんて、こんなものはないハズですが。夏フェスも終わりで、秋フェスの季節かや?不勉強でこれまで知らずにいたのだが、事実しっかり定着しているイベントに“朝霧ジャム”が存在した。その朝霧高原から今朝方、息子が帰ってきた。キャッチフレーズに「大人のロックフェスティバル」とある。土日の2日間で、初雪化粧の富士山に大きくこだまする賑わいだったのだと思う。 2人の子供が小さい頃(1992年)、朝霧高原近くの、田貫湖にキャンプしました。あれは8月後半で石田純一さん出演番組収録のロケ隊にでくわし、ちょっとしたジャズの生音も聞こえたのでした。 あとでテレビ番組をみかえすと、明らかに‘ちょっとした'感じでした。 《2008年10月6日(月)ノート》

2011年10月3日月曜日

同窓②

《1980年10月2日(木)》
→もう15年以上も顔を合わせていなかったのではなかろうか。中学生の時はバレー部のキャプテンであり、柔和な女性という印象は少なかったからこそ、フラットなイメージが1人の女性の強さを浮かび上がらせるのかも知れない。周囲の4、5人を含めて彼女もぼくも、クラスや学年のleader、co-leaderとして常に連繋を執っていた仲間だから、感激も尚更の域。
数年前、故郷から届いた同窓生名簿に、たしかに守屋中学(誤植)勤務となっていたから、忘れていたけれど知らなかった訳ではない。しかしこの水海道と隣にも拘わらず、ひどく遠い場所で、回顧するに値しない面倒な土地だと一蹴しただけである。
徒らな強がりと、流暢な時間の裂け目に群がることとかが、またたく間に表面化して個癖臭を振り撒いてしまったからである。
それ故、15年以上も経った。
指先で押し広げたブラインドの透き間から、ひょいと突如現れた『絢子さん』に一喜一憂。想い出、俄かに鬱積、好転、暗転、暫時万感。

2011年10月2日日曜日

同窓①

《1980年10月2日(木)》
宇都宮も、拝島も、初台も、そのほか五反田も神楽坂も断片的に、通り魔のように思い出すことはある。懐かしさは殆んどない。それは常に、想像で不確かなものを定着させる決定的な要素がないからである。
同じように、故郷を思い出すことも滅多にない。たとえあっても、地名や人名が瞬時、宙を飛び交うだけである。
ところが先日、久しぶりに気持ちが熱くなった。守谷中学校の昭和53年度の卒業アルバムを見せられて、もしかしたら・・・・・・という素朴な注目がその発端だったのである。
長谷山、平田、椎名、地引、小室と無垢な表情を追っていった。中学生の顔つきは谷田部も、伊奈も、水海道も皆な同じだ。いちように、冒しきれない ためらいを持っている。
眼鏡をいともたやすく身につけて堂々の正視を、カメラのレンズに向けて、『大泉さん』(先生)は無言のサインを送った。ぼくは似ていると思った。どこかで見たことのある顔というよりも、知っている 人によく似ていると思ったので、再び『大泉』という文字を朗誦して蓄えた。アルバムの後部の住所録をたしかめたのである。
『絢子』という明朝活字を見つけて、ぼくはGAAAH・・・N!となった。店の中は、MUSEの中は、ただカセットテープが、音の流れを変えているぐらいの落ち着きを見せて、1人で興奮している。ぼくに、懐かしさへの、自然な招待状を置いていってくれたのである。
『絢子さん』と言うべきかも知れない。20年近くも昔の、小学生、中学生に舞い戻って、口蓋締めて、ふとつぶやいてみる・・・Hayashi Ayako・・・と。その懐かしさのフレーズは、喉もとを通り、胸底に熱い想いを、いっきに膨らませてくれた。絶句・・・・・☆。      (→続く)

2011年9月30日金曜日

ふるさと

故郷の実家は、菓子屋だった。街には最盛期に3軒の映画館があった。ポスター(ビラという)が配布されて、我が家の店先にビラが掲げられた。そのビラと共にクーポン券のように無料や半額の券がついてきた。それを「ビラ下」と称した。ビラの下部の白いスペースにスタンプが押されているのが語源だろうと思う。親父としゅっちゅう映画を見に行った。そのせいで映画好きの基礎ができあがった。もちろん当時、映画は娯楽の中心だから、どこへ行ってもそれは変わらなかった。1960年前後から1970年以降(自身は15才から25才)の、江戸崎、土浦、宇都宮、都下、都内は想い出の地です。その後、仕事が多忙になり趣味が雑多にわたるようになった頃からめっきり映画を見なくなった。その空白はやはり映画の衰退期であったかも知れない。現在、ケーブルで見境いもなくめったやたら映画を見ている。最近「学校、4部作」を続けて見た。山田監督の姿勢が明白に伝わる。時代劇の藤沢周平作品につながる前の、意思表示だ。教育がテーマだけれど、都内の下町や、北海道の雪景色や、九州の屋久杉など昭和から平成に移行する時代の懐かしさも、丹念にとらえられている。その映像を見るだけでも感動が得られる。《2008年9月30日(火)ノート》

2011年9月28日水曜日

ブランク

《1982年9月29日》
自堕落な生活をして、3ヶ月を過ごしてしまった。
MUSEの精神的辛苦も大きかったから、治癒の意味を含めてのんびり休養の筈であった。そして付録のように教習所へ通って自動車の運転免許を取得した。だから、もう軌道修正をはかり、仕事を探さねばならぬのに、何故か怠惰癖に溺れ、気分も勝れぬまま、毎日を消費している。
求人募集がないわけではない。いろんな情報があると言ってよい。しかし、残念なことに適切なものがないのだ。甘えて選べないのではない。難しい条件の中に置かれているのだ。いまは、もうそんな年齢に添っていると言える。
追われている圧迫感も、素直な使命感も大いにあって、困窮している。
脱出!

2011年9月25日日曜日

どうにか

《1982年9月25日(土)》
やっと、免許取得作戦より解放された。
千葉市の県自動車試験場には、20日の月曜日に行ったけれど、みごと不合格で、22日の水曜日になんとか面目躍如といったところだった。特別難しいというわけでもないのだが、それでも100問中90%正解という結果を導くには、慎重を要する。疑心暗鬼が増して、正誤に対する自信が喪失する。合格する確率も5~6割程度で、かなり低いほうではなかろうか。せっかく教習所は卒業しても、安易に考えると失敗する。
いま考えると、免許取得作戦は、クルマを運転して、ぼく自身の生活範囲を拡げ自由にするという目的ではなく、明らかに挑戦にも似た周囲への顔向けだったのかも知れない。経験としては大きいことだったが、これから選ばなければならない職業のほうが遥かに重大である。

2011年9月22日木曜日

寡作

9月に入ると、そわそわ、俄に活気づき街の様相が変わり始まる。もう済んでしまったが、ことし(2007)好天に恵まれた、石岡の祭りのことだ。小学校の恩師が石岡出身で、高校の同級生にも石岡で、と言うそのくらいのつながり程度が、ここ4年ぐらい故あって石岡を行ったり来たりしている環境にある。 のに祭りをみたことがない、渋滞する国道を避けたいくらいが本音だ。市街が賑わっているのは想像できる、浴衣、半纏、法被、の装いが往来しているからだ。 そんな光景の街すがらを、クルマの中に、どんな音楽で祭りをしのいで通りすぎようかと考えたら、「ニール・ラーセン」にしようと即座に決めた。この人の音楽には、祭りの前、本番、あとの寂しさ、がすうっーとに描かれている気がする。 しかも“青春”そのものが・・・。 祭りの後の寂しさは、なんとか1年も経てば、も一度触れられる、なのにこの「ニール・ラーセン」ときたら70年代後半からやっと片手ぐらいの数しか、オリジナルをリリースしていない。今あらためて「ジャングル・フィーバー」の中の「FROM  A DREAM 」を聴くと、この曲の妙なセンスと、親しみ深いのに、なぜか真似のできない稀なメロディ感覚に、浸かってしまう。 そして痛烈な感慨でどっと胸熱くなる。《2007年9月20日(木)ノート》。

2011年9月19日月曜日

リベンジ

かどうか?
家族4人で、栃木の石裂山(おざくさん)を登ろうと計画(1992年10月)して、当時の肉体的な条件を考慮して鎖場のルートで引き返し断念した。子供二人が小学生だったこともあるが、自分自身が体力にも、厳しさを感じ始めた19年前のことである。
そして昨年8月19日に再度挑戦が、天候不順にて予定を変えて栃木市散策に遊んだ。
またもや、昨日4人が揃った、娘は広島から里帰りで好都合。残念ながら自分は全くもって、登山は無理になってしまった。ので麓の加蘇山神社辺で5時間余のリハビリ待機。
しかし、3人は悪戦苦闘の末に、戻ってきました。この石裂山は低山にも拘わらず、岩場や鎖場、滑りそうな勾配とかの険しさを見せている本格登山コース!なのだそうです。
深山幽谷という表現がピタリの、神妙さえ溢れるたたずまい。
この登山には、達成しなければならない負荷もあって、無事に済ませたことは、家族の中の僅かな問いかけの一つが解消した気がするのだ。

2011年9月17日土曜日

第一関門

《1982年9月17日(金)》                                           
概ね、2ヶ月を費やしてやっと自動車学校を卒業することが出来た。まずまず、早いほうだと思うが、教習専業なのだから、もっと早くても当然かもしれない。
この経験は大きい。いま気分が、のんびりして悠々としていられるのは、ひとまず解放されたからであり、たとえ本試験があり、就職という関門があるにせよ、所謂、一般的な通り道を経たという体験は大きい。とにかく高校ぐらいまでは、喜んで勉強にうちこんでいるのは半分もなかった筈であり、団体という中で訓練されることの辛さを十分感じていた。しかし社会へ出てからというもの、他人はともかくぼくは殆んどが好きなことを、やってきた。好きな仕事にありつくために、準備したり、好きなデザイン・スクールに通ったりであった。すべてが勝手気ままな行為であったと思う。精神もそれに付随した。自由であり得たわけだ。ところが、自動車教習は、必要性はあるにせよ、不可欠のものではない。だから取得年令を20年も放置していたのだ。特別の不便も感じなかった。そうした抵抗感を持ちながら、不惑の心に努めて、生徒に徹した。若もの気分は横溢し、毎日躊躇しながらクルマに乗った。だから、ぼくにしては異常に近い体験だったと言える。
ああ、疲れました・・・・・・
というところ。
こんどは、千葉市まで赴いて本試験。

2011年9月14日水曜日

場違い

13日(2007/09)久しぶり水戸へ出かけた。ねじれ?タワーの芸術館へ、これで2度目。5年前はストリートアートも含めた、現代美術の祭典「カフェin水戸」、この時は多くの出品者で多岐にわたり、賑やかであった。で、今回ひとりのデザイナー、アーティストによる多彩な芸幅の展覧会であった。「ひびのこづえ」という名で、克彦は連想したものの、まさかという思いで?それはつながってしまった。むすめの誘いに(前回も)応じたものの、ファッション主体となれば気後れするものもあり、飽きてしまう、退屈してしまう、かと懸念したがそれほどのこともなく却って、興味の持てる豊かな発想に出会えた。ファッションのみならず、テキスタイル、クラフト、陶芸、木工、という拡がりで、まずは身近な自身のためのデザイン、制作が基本だったように感じられる。その素朴なアイディアとひとりよがりの満足感が優しく反映し、空間の演出に輝きを増す。それらは個人の生活を覗く設定になっているが、すべて呼吸する、吐息さえ漏れる、温度にふれるようだ。見学者としてのの自分は場違いらしく、作品に堂々と触れてしまい、あくびを抑えていた学芸員から小さな叱責を得た。ふふふ・・・。  《2007年9月15日(土)ノート》。
実は、「カフェin水戸」 今年(2011)も開催中で!

2011年9月13日火曜日

嬌声

《1982年9月13日(月)》
アパートの隣は、我孫子中学校である。昨日の日曜日が、台風18号通過の暴風雨に見舞われたため、運動会が今日である。
黄色い歓声と、応援のシュプレヒコールが、こだまする。ぼくの嫌いな運動会だ。声を出しているのは女性ばかりではないのか、テレビやドラマでみるスポーツ観戦の整った応援風景が、よく真似られて、とても20年以上も前の想い出とは合致し得ない。明らかに別世界の嬌声のようだ。そして母親たちであろうか。時には父親らしき人物がカメラを携えて右往左往している。台風一過秋晴れ。
江戸崎中学校(故郷の)の校庭はいくつもあって大きかった。赤土の台地で、周囲には桜の木が植えられてあった。環境的には、良かったのではないだろうか。野球のバックネット後方に筑波山が見え、レフト左方には霞ヶ浦へ続く小野川が眺められた。現在の中学校は様相を変え、統合されたついでに、合理化を訴え、運動場もちんまりしたと聞く。
昔のことだ。

2011年9月12日月曜日

色づく

市立の図書館は分館も含めて、まあまあの頻度で利用している・・・・・のだが借りるという準備と、その準備よりも面倒な返却という行為の、繰りかえしを自らに課す心のリハビリみたいな半ば快い日常の予定に、数ヶ月浸って、そしてしばらく飽きたように休んで・・・・・昨日久しぶりに出かけた。
興味あるものが、あちらこちらに散在していて図書館だけの賄いですむことはあり得ない。当然である。
いちばんの面倒、億劫の源が自分にとって最も大事な、歩くというアクションで、それを費やすにも格好の場所に図書館があるという、有り難い距離感。駐車場からの程よい眺望と公園からのエントランス。
時間を計らなくてはならない環境で、駐車場までの往復1時間は素早く、道のりはウォッチング、景観、季節にふれあう、ためのもの・・・なり?
もはや秋の支配が、始まる。         《2009年9月11日(金)ノート》。

2011年9月10日土曜日

自動車教習所②

《1982年9月10日(金)》
自信があったわけではないが、卒業検定には受かるだろうと思っていた。しかし、昨日の試験では、危険行為ですぐ降ろされ中止になった。もちろん失敗であった。自転車横断道で待っている人がいただけのことだ。検定だからこそチェックに値するのであって、免許取得後の日常では、人のいるのを認めながら通過するに違いないのである。
今週限りでという予定が延ばされた。因みに落ちたのは40人中3人だったと思う。ショックでした。
大学受験に失敗して浪人する立場を考えると、とてもこんな比ではないのがよく判る。どんなに緊張しても、結局は自ら答えを用意しなくてはならないのだ。いい経験だ。これから試験なんて、そんなに経験することではない。面接などとちがって、均一な能力を探られるのだから、老いれば尚のこと、心身の負担は大きい。(当時38才でした)

2011年9月9日金曜日

自動車教習所①

《1982年9月7日(火)》
教習所通いも今週いっぱいで済みそうだ。
いろんな教官がいる。学校の先生よりは明らかに雑多な職業を経てきている筈だから、より社会性を帯びている。そのわりには人格的尺度は、人生経験に比較して設けられているというわけではない。無地のままの人間が見えると言えよう。どのくらいの年令なのか、外見のこわさと同一なのか、そうした僅かのとまどい感が急に膨れ上がって、ある教官に出会うと日常の力がスムーズに発揮できないことがある。逆を言えば、ぼくが順応性を鋭くすればいいのだろうけれど、立場が教官と生徒であっては致し方ない。当然、へたな運転になる。

2011年9月8日木曜日

飛行機の夏

本日(2007/09/09)、百里基地で航空ショウ。  あれは1985年7月28日、故郷の祭りの翌日、縁者のさそいで、小川町(現、小美玉市)の百里基地での自衛隊機による航空ショウへ出かけた。まさか、こういうところへ(基地)入れるなんて?と想いと、社会勉強みたいな興味で、?  しかし、雲一つない青空にさらけだす轟音と、間近にうなり飛ぶ機体の凄まじいマッハ音に、度肝を抜かれた。 これは半端じゃない「すんごい!」。    夏休み初めの頃、近くの海水浴客と帰路は重なり基地から出ても延々と渋滞で、エアコンのない軽自動車の窓を全開にしてアイスクリーム売りの声でしばらく涼を得て、流山へ戻った。  9月にショウが変更されたのは、そうした交通事情もあったのかと?  ことし、たしかに暑かった、きょうも残暑厳しい、が記憶では、あの日の暑さが一番で、常に簡素な母親の何気ない言葉に信じ込んでしまう懐かしさがある。元気ならば、ことし白寿だったのにと。当時の写真挿入。《2007年9月9日(日)ノート》。

2011年9月6日火曜日

夏のツケ

が今になって、まわって来た。夏の消化イベントを大げさにひけらかした覚えはないけれど、そして謳歌した夏をていねいに締めくくりもせずに満喫をとどろかしたこともないけれど、何故か我がファミリーには誤算が生まれた。これは仕方がない。8月後半の天の怒りの集中豪雨の予想だにできなかった気象異変、晴天のへきれき。まあ、ごめんなさいと念じて祈るしかない。昨年(2007)9月の日高の秋を挿入(埼玉)。  《2008年9月7日(日)ノート》。

2011年9月2日金曜日

もう秋風が

昨日(2009/09/01)首都高を走った。運転者はもう少し若くて、助手席は初老のくたびれたナビだ(筆者)。実は再びアパート住まいの息子の引越しで家族3人で世田谷方面へ。 昨年までは杉並だったが。
1965年頃(=都内で仕事をするようになって)の賑やかさや喧騒と、ちっとも変わっちゃいない印象の都会は、素早く動く回るのが似合うっていうのかな、のんびりするには、細かい網の目状の道路は巨大な迷路と化して立ち塞がる。『若者の街だよ』と言わんばかりの・・・。
しかし、せわしいのは側である。そして、そのように誇張して見えるのも真実。
三軒茶屋、環七、駒沢通り、目黒通り、碑文谷とつないでみると張り巡らされた頭上の電線の複雑なネットに縛られているかのような錯覚に陥る。40年以上も前も同じであったのに、その頃に平気で馴染んでいた感覚が、肉体の衰退とともに同調を失い始めている。当然のことだ。抗うべくもない、さらして都会の軌跡を辿ってみよういう新たな思惑。
実のところ、都会の軌跡ではなく、自身の軌跡をもう一度確かめ映すのが目的。希望ですが。
出きるだろうか、ぼけを前面に現しているのに、ごく普通に速度を見せている世の中に、ひょいと乗り移れるだろうか。
昨日の帰路、環七から246を渋谷へ、池尻辺から首都高への、ひょいとは失敗したが、三軒茶屋から大橋への緩やかなカーブは林立のビルの豹変に惑わされるとも、懐かしい夜景を見せていた。何とか高樹町から高速に入れた。ドライバー(家人)は偉い。
三郷から常磐道へ向かう頃には、途轍もない睡魔がやってきて、助手席の窓を少し開けるとクルマの中へは昼間の残暑を忘れて、もはや秋の風が・・・ひょいともぐり込む。 《2009年9月2日(水)ノート》。

2011年8月31日水曜日

調整

《1979年8月31日(金)》                                         
明日から9月だというのに、市内(水海道)の高等学校は、調整日が1日だけあって、8月31日のきょうから始業。カーテンの網のすき間から、煩わしそうな女子高生のスカートの黒(紺)が、逆さ扇子の形になって右左、前後に夏の終わりの真昼を闊歩した。試験が間近いという。というけれど、いつものある決まった時間になって、夏休み前の同じ顔ぶれが揃った。
久しぶりの、タカナシ君が浅黒くなって健康的に見えた。言葉の端はしに、40日間の精神的な猛暑の火傷を感じることが出来た。冗談を言ったり、真実を言うことの楽しみが、ぼくの方で持つことが出来て快かった。たしかに成長し、生きているっていう感じがする。

2011年8月29日月曜日

いい年令

会社の人間は殆んどが大人である。marutaka工業(本社)には成人前の若人や20才代も多いらしいが、柏工場は、いい大人ばかりである。《1983年8月22日》                          

《1983年8月28日》
いい年令の大人ばかりである という意味であるが、それは年令だけで名実ともに、いい というわけにはいかない。これは俗臭ふんぷんという世の中の縮図に相違ない。勉強になりますという周囲にあらず、害を受けそうな臭いかも知れない。
強引であることや、度胸のいい輩が、厚遇されるような仕組みになっている・・・・・そんな時代ではないかと思う。(・・・今の時代も、挙手することで、即ち突出することで先走りる傾向が報われる感がありそうな?)   所謂、マスコミで活躍している人気者たちの内実を探ってみても、力というよりも、策という気がするのである。

2011年8月28日日曜日

母のつぶやき

《1982年8月26日(木)》
先週、母がやってきた(=1992年に他界している)。母は天王台(常磐線・我孫子市)の駅まで、1人でやってきた。若い時、1人歩きをしなかったから、よくぞ実行したなと思う、今74歳なのです。元気な証拠だ。
久しぶりにいろいろ話してみると、父から怒鳴られていた頃の、マイナスのイメージは今はなく、かえって当時も母は冷静だったのではないかと思われることだ。何も父が、常に激昂ぶりを発揮していたという意味ではない。
そして、ひさびさの会話で、父系の、母系の親類縁者の複雑な関係を想い出しながら、訊いてみた。

2011年8月27日土曜日

2005東北の旅③

2005/08/26(金)
9:00 遠野→宮守村→めがね橋→花巻→山猫軒→北上→水沢→胆沢→HALF NOTE(昼食)

HALH NOTE=ジャズ喫茶、いい感じながら、主張の乏しいのは、即ち個性が見られないのは、客待ちの辛い環境による遠慮した媚にある?のだろうか。

前沢→高速道→宇都宮IC→小山→結城→下妻→つくば

2011年8月26日金曜日

2005東北の旅②

2005/08/25(木)
9:15 ペンシォン「秋」→八幡平→アスピーテライン→樹海→岩手町→葛巻町→岩泉町道の駅(昼食)→宮古→浄土ヶ浜→山田湾→笛吹き峠→遠野「あえりあ遠野」泊。

現在はナビ装備の、クルマだけれど当時は助手席の自分が、ぼけナビで始終口論の絶えないドライブであった。何度も迂回を重ね、右往左往の態たらく。これも自身の寛容を含めた想い出です。それらのキャパは絶対必要なことで、だから!人生って言うのじゃないかな?
いつも負け惜しみ、いやいや大胆も、執拗も乏しいから、テキトー適宜なレイアウトでフィニッシュ。

2011年8月25日木曜日

2005東北の旅①

2005年8月24日(水)、25日(木)、26日(金)、3日間岩手辺を旅してきた。

8/24 5:00つくば→R294→下妻、下館、二宮、真岡→R4号→高根沢→氏家→矢板IC→東北道→紫波IC(盛岡)→NONK TONK=とても、いい雰囲気の店。ジャズ喫茶として成功している。しかもメニューも豊富。
雫石→小岩井→松尾八幡平→ペンション「秋」泊=このペンションではジャズの聴ける飲食スペースがある。

2011年8月23日火曜日

予備知識

なんて持たなければ、気楽に、それこそすんなり対応できるのに、便利なものがすぐ傍にあるせいで頼って、ほのかな心配を無理に導いている。これが果たして役に立っているのか実はよく判らない。おおげさに言えば、事象、事柄に対処するために生きている、そしてその都度ネットを開いて教えを請うて方法を講じて進んでいる。その繰り返しを60年以上も続けている(パソコンは最近だ)。お気楽に出来たら言うことないが、これがチョイと難しい。まして自分の記憶がおぼつかず、あいまいになってくる不安で覆われると一種のパニック状態に陥るやも知れぬ。周囲をなだめて自身をコントロールして、これは大変なこと。
世の怒りか、2, 3日続いて雷雨襲来、昨日(2008/08/21)夕刻雨上がりのあと、弱い日差しに虹が浮き出て、お気楽に反応して撮りました。  《2008年8月22日(金)ノート》。

2011年8月20日土曜日

りあるたいむ

映画「初恋」を見た。
3億円事件は、自分にとってまさしくリアルタイム。1968年は東府中に住んでいて、事件の後は、1軒1軒捜査が行われてアパートにも警察官がやってきた。
ペトリカメラの電飾ネオン塔のイントロ(=映画「初恋」)からして新宿は彷彿と現れる。(立川のコイデカメラで買ったのがペトリで、今も現役)。
そしてジャズ喫茶店へ行き始めた頃、仕事は五反田だった。全学連、ベ平連の時代。看板屋のトラックの移動で都会の世の移り変わりを凝視できたが、結局は傍観者。しかし興味と関心は募っていて確かな友人を得た。Tomizawa氏(=現在疎遠、辛い)。
「初恋」・・・ジャズ喫茶でのシーン及び周辺は、怠惰な長尺もののフリージャズの集団即興の如くで、だれる・・・次第に個を描く展開に進んでから観客の感性に協調が生まれ、岸(小出恵介)vsみすず(宮崎あおい)の時間が、力を帯びてくる。最後に個人の処され方が無名碑のようにフェイドアウトされた時、せつない感じが浮かぶのが、同時代で共感できる。ペトリで撮ったモノクロ府中の景観を挿入します。《2007年8月20日(月)ノート》。

2011年8月18日木曜日

処分?


《1986年8月18日(月)》       
 久しぶりに会社(柏市)に行ってみると、休暇の疲れが残っていて、ブルー・マンディ。
 しかし、半日も過ぎると、やはりいつもの調子が戻ってくる感じ。
 休み中は、毎日の如くステレオにかじりついて、不用(?)のレコードを録音し続けた。ディスク・ユニオンへ売却に行くつもりである。合計してみたら、これまでに概ね100枚ぐらいは処分しているようであった。
 自分の子供たちに聴かせたいと思ってはいたけれど、全部というほどの傑作もなしで、結局は整理しているのである。いちばん気に入っているものは残してある。

2011年8月16日火曜日

猛暑

昨日(2007年8月15日)のこと。すぐ近くだし墓参もできたはずなのに、ことしもすっぽかし、流山辺りへ出かけてしまった。やはりお盆の15日は、どこもかしこも混雑でぶらぶらするだけの家族の多いのにはビックリする。お昼の2時頃に我孫子へまわり帰ってきた。【実は我孫子も流山も準故郷!】  1944年生まれの自分の衰えは当然としても、昼過ぎの暑さはかつてないような厳しさだった。家へもどったらニュースで40度を超える地域のあったことを伝えていた。 ことしは例年になく原爆や、戦争に執心する気持ちも増していて、暑い夏の記憶は多々よみがえる。江戸崎の実家の床下にも近所の裏山にも防空壕はあったし、ひんやりかびくさい匂いとその涼しさの奥の方で遊んだことを想い出す。外に出るとむおっとする暑気とまぶしさで、くらくらするほどだった。 《2007年8月16日(木)記》。