2011年9月30日金曜日

ふるさと

故郷の実家は、菓子屋だった。街には最盛期に3軒の映画館があった。ポスター(ビラという)が配布されて、我が家の店先にビラが掲げられた。そのビラと共にクーポン券のように無料や半額の券がついてきた。それを「ビラ下」と称した。ビラの下部の白いスペースにスタンプが押されているのが語源だろうと思う。親父としゅっちゅう映画を見に行った。そのせいで映画好きの基礎ができあがった。もちろん当時、映画は娯楽の中心だから、どこへ行ってもそれは変わらなかった。1960年前後から1970年以降(自身は15才から25才)の、江戸崎、土浦、宇都宮、都下、都内は想い出の地です。その後、仕事が多忙になり趣味が雑多にわたるようになった頃からめっきり映画を見なくなった。その空白はやはり映画の衰退期であったかも知れない。現在、ケーブルで見境いもなくめったやたら映画を見ている。最近「学校、4部作」を続けて見た。山田監督の姿勢が明白に伝わる。時代劇の藤沢周平作品につながる前の、意思表示だ。教育がテーマだけれど、都内の下町や、北海道の雪景色や、九州の屋久杉など昭和から平成に移行する時代の懐かしさも、丹念にとらえられている。その映像を見るだけでも感動が得られる。《2008年9月30日(火)ノート》

2011年9月28日水曜日

ブランク

《1982年9月29日》
自堕落な生活をして、3ヶ月を過ごしてしまった。
MUSEの精神的辛苦も大きかったから、治癒の意味を含めてのんびり休養の筈であった。そして付録のように教習所へ通って自動車の運転免許を取得した。だから、もう軌道修正をはかり、仕事を探さねばならぬのに、何故か怠惰癖に溺れ、気分も勝れぬまま、毎日を消費している。
求人募集がないわけではない。いろんな情報があると言ってよい。しかし、残念なことに適切なものがないのだ。甘えて選べないのではない。難しい条件の中に置かれているのだ。いまは、もうそんな年齢に添っていると言える。
追われている圧迫感も、素直な使命感も大いにあって、困窮している。
脱出!

2011年9月25日日曜日

どうにか

《1982年9月25日(土)》
やっと、免許取得作戦より解放された。
千葉市の県自動車試験場には、20日の月曜日に行ったけれど、みごと不合格で、22日の水曜日になんとか面目躍如といったところだった。特別難しいというわけでもないのだが、それでも100問中90%正解という結果を導くには、慎重を要する。疑心暗鬼が増して、正誤に対する自信が喪失する。合格する確率も5~6割程度で、かなり低いほうではなかろうか。せっかく教習所は卒業しても、安易に考えると失敗する。
いま考えると、免許取得作戦は、クルマを運転して、ぼく自身の生活範囲を拡げ自由にするという目的ではなく、明らかに挑戦にも似た周囲への顔向けだったのかも知れない。経験としては大きいことだったが、これから選ばなければならない職業のほうが遥かに重大である。

2011年9月22日木曜日

寡作

9月に入ると、そわそわ、俄に活気づき街の様相が変わり始まる。もう済んでしまったが、ことし(2007)好天に恵まれた、石岡の祭りのことだ。小学校の恩師が石岡出身で、高校の同級生にも石岡で、と言うそのくらいのつながり程度が、ここ4年ぐらい故あって石岡を行ったり来たりしている環境にある。 のに祭りをみたことがない、渋滞する国道を避けたいくらいが本音だ。市街が賑わっているのは想像できる、浴衣、半纏、法被、の装いが往来しているからだ。 そんな光景の街すがらを、クルマの中に、どんな音楽で祭りをしのいで通りすぎようかと考えたら、「ニール・ラーセン」にしようと即座に決めた。この人の音楽には、祭りの前、本番、あとの寂しさ、がすうっーとに描かれている気がする。 しかも“青春”そのものが・・・。 祭りの後の寂しさは、なんとか1年も経てば、も一度触れられる、なのにこの「ニール・ラーセン」ときたら70年代後半からやっと片手ぐらいの数しか、オリジナルをリリースしていない。今あらためて「ジャングル・フィーバー」の中の「FROM  A DREAM 」を聴くと、この曲の妙なセンスと、親しみ深いのに、なぜか真似のできない稀なメロディ感覚に、浸かってしまう。 そして痛烈な感慨でどっと胸熱くなる。《2007年9月20日(木)ノート》。

2011年9月19日月曜日

リベンジ

かどうか?
家族4人で、栃木の石裂山(おざくさん)を登ろうと計画(1992年10月)して、当時の肉体的な条件を考慮して鎖場のルートで引き返し断念した。子供二人が小学生だったこともあるが、自分自身が体力にも、厳しさを感じ始めた19年前のことである。
そして昨年8月19日に再度挑戦が、天候不順にて予定を変えて栃木市散策に遊んだ。
またもや、昨日4人が揃った、娘は広島から里帰りで好都合。残念ながら自分は全くもって、登山は無理になってしまった。ので麓の加蘇山神社辺で5時間余のリハビリ待機。
しかし、3人は悪戦苦闘の末に、戻ってきました。この石裂山は低山にも拘わらず、岩場や鎖場、滑りそうな勾配とかの険しさを見せている本格登山コース!なのだそうです。
深山幽谷という表現がピタリの、神妙さえ溢れるたたずまい。
この登山には、達成しなければならない負荷もあって、無事に済ませたことは、家族の中の僅かな問いかけの一つが解消した気がするのだ。

2011年9月17日土曜日

第一関門

《1982年9月17日(金)》                                           
概ね、2ヶ月を費やしてやっと自動車学校を卒業することが出来た。まずまず、早いほうだと思うが、教習専業なのだから、もっと早くても当然かもしれない。
この経験は大きい。いま気分が、のんびりして悠々としていられるのは、ひとまず解放されたからであり、たとえ本試験があり、就職という関門があるにせよ、所謂、一般的な通り道を経たという体験は大きい。とにかく高校ぐらいまでは、喜んで勉強にうちこんでいるのは半分もなかった筈であり、団体という中で訓練されることの辛さを十分感じていた。しかし社会へ出てからというもの、他人はともかくぼくは殆んどが好きなことを、やってきた。好きな仕事にありつくために、準備したり、好きなデザイン・スクールに通ったりであった。すべてが勝手気ままな行為であったと思う。精神もそれに付随した。自由であり得たわけだ。ところが、自動車教習は、必要性はあるにせよ、不可欠のものではない。だから取得年令を20年も放置していたのだ。特別の不便も感じなかった。そうした抵抗感を持ちながら、不惑の心に努めて、生徒に徹した。若もの気分は横溢し、毎日躊躇しながらクルマに乗った。だから、ぼくにしては異常に近い体験だったと言える。
ああ、疲れました・・・・・・
というところ。
こんどは、千葉市まで赴いて本試験。

2011年9月14日水曜日

場違い

13日(2007/09)久しぶり水戸へ出かけた。ねじれ?タワーの芸術館へ、これで2度目。5年前はストリートアートも含めた、現代美術の祭典「カフェin水戸」、この時は多くの出品者で多岐にわたり、賑やかであった。で、今回ひとりのデザイナー、アーティストによる多彩な芸幅の展覧会であった。「ひびのこづえ」という名で、克彦は連想したものの、まさかという思いで?それはつながってしまった。むすめの誘いに(前回も)応じたものの、ファッション主体となれば気後れするものもあり、飽きてしまう、退屈してしまう、かと懸念したがそれほどのこともなく却って、興味の持てる豊かな発想に出会えた。ファッションのみならず、テキスタイル、クラフト、陶芸、木工、という拡がりで、まずは身近な自身のためのデザイン、制作が基本だったように感じられる。その素朴なアイディアとひとりよがりの満足感が優しく反映し、空間の演出に輝きを増す。それらは個人の生活を覗く設定になっているが、すべて呼吸する、吐息さえ漏れる、温度にふれるようだ。見学者としてのの自分は場違いらしく、作品に堂々と触れてしまい、あくびを抑えていた学芸員から小さな叱責を得た。ふふふ・・・。  《2007年9月15日(土)ノート》。
実は、「カフェin水戸」 今年(2011)も開催中で!

2011年9月13日火曜日

嬌声

《1982年9月13日(月)》
アパートの隣は、我孫子中学校である。昨日の日曜日が、台風18号通過の暴風雨に見舞われたため、運動会が今日である。
黄色い歓声と、応援のシュプレヒコールが、こだまする。ぼくの嫌いな運動会だ。声を出しているのは女性ばかりではないのか、テレビやドラマでみるスポーツ観戦の整った応援風景が、よく真似られて、とても20年以上も前の想い出とは合致し得ない。明らかに別世界の嬌声のようだ。そして母親たちであろうか。時には父親らしき人物がカメラを携えて右往左往している。台風一過秋晴れ。
江戸崎中学校(故郷の)の校庭はいくつもあって大きかった。赤土の台地で、周囲には桜の木が植えられてあった。環境的には、良かったのではないだろうか。野球のバックネット後方に筑波山が見え、レフト左方には霞ヶ浦へ続く小野川が眺められた。現在の中学校は様相を変え、統合されたついでに、合理化を訴え、運動場もちんまりしたと聞く。
昔のことだ。

2011年9月12日月曜日

色づく

市立の図書館は分館も含めて、まあまあの頻度で利用している・・・・・のだが借りるという準備と、その準備よりも面倒な返却という行為の、繰りかえしを自らに課す心のリハビリみたいな半ば快い日常の予定に、数ヶ月浸って、そしてしばらく飽きたように休んで・・・・・昨日久しぶりに出かけた。
興味あるものが、あちらこちらに散在していて図書館だけの賄いですむことはあり得ない。当然である。
いちばんの面倒、億劫の源が自分にとって最も大事な、歩くというアクションで、それを費やすにも格好の場所に図書館があるという、有り難い距離感。駐車場からの程よい眺望と公園からのエントランス。
時間を計らなくてはならない環境で、駐車場までの往復1時間は素早く、道のりはウォッチング、景観、季節にふれあう、ためのもの・・・なり?
もはや秋の支配が、始まる。         《2009年9月11日(金)ノート》。

2011年9月10日土曜日

自動車教習所②

《1982年9月10日(金)》
自信があったわけではないが、卒業検定には受かるだろうと思っていた。しかし、昨日の試験では、危険行為ですぐ降ろされ中止になった。もちろん失敗であった。自転車横断道で待っている人がいただけのことだ。検定だからこそチェックに値するのであって、免許取得後の日常では、人のいるのを認めながら通過するに違いないのである。
今週限りでという予定が延ばされた。因みに落ちたのは40人中3人だったと思う。ショックでした。
大学受験に失敗して浪人する立場を考えると、とてもこんな比ではないのがよく判る。どんなに緊張しても、結局は自ら答えを用意しなくてはならないのだ。いい経験だ。これから試験なんて、そんなに経験することではない。面接などとちがって、均一な能力を探られるのだから、老いれば尚のこと、心身の負担は大きい。(当時38才でした)

2011年9月9日金曜日

自動車教習所①

《1982年9月7日(火)》
教習所通いも今週いっぱいで済みそうだ。
いろんな教官がいる。学校の先生よりは明らかに雑多な職業を経てきている筈だから、より社会性を帯びている。そのわりには人格的尺度は、人生経験に比較して設けられているというわけではない。無地のままの人間が見えると言えよう。どのくらいの年令なのか、外見のこわさと同一なのか、そうした僅かのとまどい感が急に膨れ上がって、ある教官に出会うと日常の力がスムーズに発揮できないことがある。逆を言えば、ぼくが順応性を鋭くすればいいのだろうけれど、立場が教官と生徒であっては致し方ない。当然、へたな運転になる。

2011年9月8日木曜日

飛行機の夏

本日(2007/09/09)、百里基地で航空ショウ。  あれは1985年7月28日、故郷の祭りの翌日、縁者のさそいで、小川町(現、小美玉市)の百里基地での自衛隊機による航空ショウへ出かけた。まさか、こういうところへ(基地)入れるなんて?と想いと、社会勉強みたいな興味で、?  しかし、雲一つない青空にさらけだす轟音と、間近にうなり飛ぶ機体の凄まじいマッハ音に、度肝を抜かれた。 これは半端じゃない「すんごい!」。    夏休み初めの頃、近くの海水浴客と帰路は重なり基地から出ても延々と渋滞で、エアコンのない軽自動車の窓を全開にしてアイスクリーム売りの声でしばらく涼を得て、流山へ戻った。  9月にショウが変更されたのは、そうした交通事情もあったのかと?  ことし、たしかに暑かった、きょうも残暑厳しい、が記憶では、あの日の暑さが一番で、常に簡素な母親の何気ない言葉に信じ込んでしまう懐かしさがある。元気ならば、ことし白寿だったのにと。当時の写真挿入。《2007年9月9日(日)ノート》。

2011年9月6日火曜日

夏のツケ

が今になって、まわって来た。夏の消化イベントを大げさにひけらかした覚えはないけれど、そして謳歌した夏をていねいに締めくくりもせずに満喫をとどろかしたこともないけれど、何故か我がファミリーには誤算が生まれた。これは仕方がない。8月後半の天の怒りの集中豪雨の予想だにできなかった気象異変、晴天のへきれき。まあ、ごめんなさいと念じて祈るしかない。昨年(2007)9月の日高の秋を挿入(埼玉)。  《2008年9月7日(日)ノート》。

2011年9月2日金曜日

もう秋風が

昨日(2009/09/01)首都高を走った。運転者はもう少し若くて、助手席は初老のくたびれたナビだ(筆者)。実は再びアパート住まいの息子の引越しで家族3人で世田谷方面へ。 昨年までは杉並だったが。
1965年頃(=都内で仕事をするようになって)の賑やかさや喧騒と、ちっとも変わっちゃいない印象の都会は、素早く動く回るのが似合うっていうのかな、のんびりするには、細かい網の目状の道路は巨大な迷路と化して立ち塞がる。『若者の街だよ』と言わんばかりの・・・。
しかし、せわしいのは側である。そして、そのように誇張して見えるのも真実。
三軒茶屋、環七、駒沢通り、目黒通り、碑文谷とつないでみると張り巡らされた頭上の電線の複雑なネットに縛られているかのような錯覚に陥る。40年以上も前も同じであったのに、その頃に平気で馴染んでいた感覚が、肉体の衰退とともに同調を失い始めている。当然のことだ。抗うべくもない、さらして都会の軌跡を辿ってみよういう新たな思惑。
実のところ、都会の軌跡ではなく、自身の軌跡をもう一度確かめ映すのが目的。希望ですが。
出きるだろうか、ぼけを前面に現しているのに、ごく普通に速度を見せている世の中に、ひょいと乗り移れるだろうか。
昨日の帰路、環七から246を渋谷へ、池尻辺から首都高への、ひょいとは失敗したが、三軒茶屋から大橋への緩やかなカーブは林立のビルの豹変に惑わされるとも、懐かしい夜景を見せていた。何とか高樹町から高速に入れた。ドライバー(家人)は偉い。
三郷から常磐道へ向かう頃には、途轍もない睡魔がやってきて、助手席の窓を少し開けるとクルマの中へは昼間の残暑を忘れて、もはや秋の風が・・・ひょいともぐり込む。 《2009年9月2日(水)ノート》。