《1981年3月7日(土)》
ディビッド・マレイのサックス・ソロ2枚をぶっ続けて聴いた。何故か情緒がはっきりしてメロディの流れが安易に耳に届いて、少々気になった。これがいいという、ものだろうか。この種のジャズに関しては炸裂すればするほど、咆哮すればするほど、いいみたいな抵抗力の感傷度がある。しかし、感傷にふけることで理解力が確かめられる訳ではない。けれど、感傷という侵略係数のヴォルテージが昇ることによって、ジャズに接している興奮が確かめられるのかも知れない。これは決して鑑賞といった安楽椅子的受け身体制ではない音楽の典型に、ジャズは大きく位置しているものだと思う。
1965年前後の頃、オスカー・ピーターソンやハービー・マンを好んで聴き、新しい音を漁ったことがある。当時の愛聴盤は「ウェスト・サイド・ストリー」(オスカー・ピーターソン)で、いまこれを耳にしても衝撃はないが、揺るがぬ音楽性と気品は、そのまま残されている。とても酒を飲みながら適するジャズだとは、ぼくには思えきれない。酔いながらの雰囲気で接してしまう余裕はぼくにはない。
逆に言えば、暇に任せて、朝っぱらから酒を飲んでいて、ジャズが酒の肴になって酔いを誘っていた休日が過去にあった。ジョー・マクフィーもバイヤード・ランカスターも、ジャック・クールシルも分け隔てなく空腹な胃に、赤いウイスキーと共に滲みていたのであった。
ディビッド・マレイのテナー・サックス・ソロを聴いていて、ジョン・コルトレーンの演りたかったのは、こんな自由なライブだったのではなかろうかと、思っていた。「至上の愛」や「変遷」での一種、荘厳な様式化は、敬虔な祈りの如き怒濤と静寂をたたえてはいるが、音の表情はせめてそのへんまでで、他願視している委任の部分に、怠惰が感じられてならなかった。ビレッジ・バンガードのライブに、コルトレーンの全貌が集約されているように思える。それでも、尚、自由にはなれなかったのだろう。コルトレーンが今、生きていたとして、どんな風になって変化していったか、どうか想像することは楽しい。彼のグループ・サウンズの昇華の激しさからすると、強力なフュージョン・バンドに移行していったと思える。そして常に、オーネット・コールマンやセシル・テイラーの資質を興味深く眺める心境になっていたろう。コルトレーンは俗から抜け出ることを自身のプレイに課していた。しかし、コールマンやアーチィ・シェップに感じられるのは、いつまでも俗であるナチュラルな精神性から送られてくる音だ。そのスノッブ性に同胞を覚える。といって俗化することを試みる妥協心はコールマンやシェップ、テイラーの頭にはなかった。
若手のデビッド・マレイも、彼らと同じ範疇。
ディビッド・マレイのサックス・ソロ2枚をぶっ続けて聴いた。何故か情緒がはっきりしてメロディの流れが安易に耳に届いて、少々気になった。これがいいという、ものだろうか。この種のジャズに関しては炸裂すればするほど、咆哮すればするほど、いいみたいな抵抗力の感傷度がある。しかし、感傷にふけることで理解力が確かめられる訳ではない。けれど、感傷という侵略係数のヴォルテージが昇ることによって、ジャズに接している興奮が確かめられるのかも知れない。これは決して鑑賞といった安楽椅子的受け身体制ではない音楽の典型に、ジャズは大きく位置しているものだと思う。
1965年前後の頃、オスカー・ピーターソンやハービー・マンを好んで聴き、新しい音を漁ったことがある。当時の愛聴盤は「ウェスト・サイド・ストリー」(オスカー・ピーターソン)で、いまこれを耳にしても衝撃はないが、揺るがぬ音楽性と気品は、そのまま残されている。とても酒を飲みながら適するジャズだとは、ぼくには思えきれない。酔いながらの雰囲気で接してしまう余裕はぼくにはない。
逆に言えば、暇に任せて、朝っぱらから酒を飲んでいて、ジャズが酒の肴になって酔いを誘っていた休日が過去にあった。ジョー・マクフィーもバイヤード・ランカスターも、ジャック・クールシルも分け隔てなく空腹な胃に、赤いウイスキーと共に滲みていたのであった。
ディビッド・マレイのテナー・サックス・ソロを聴いていて、ジョン・コルトレーンの演りたかったのは、こんな自由なライブだったのではなかろうかと、思っていた。「至上の愛」や「変遷」での一種、荘厳な様式化は、敬虔な祈りの如き怒濤と静寂をたたえてはいるが、音の表情はせめてそのへんまでで、他願視している委任の部分に、怠惰が感じられてならなかった。ビレッジ・バンガードのライブに、コルトレーンの全貌が集約されているように思える。それでも、尚、自由にはなれなかったのだろう。コルトレーンが今、生きていたとして、どんな風になって変化していったか、どうか想像することは楽しい。彼のグループ・サウンズの昇華の激しさからすると、強力なフュージョン・バンドに移行していったと思える。そして常に、オーネット・コールマンやセシル・テイラーの資質を興味深く眺める心境になっていたろう。コルトレーンは俗から抜け出ることを自身のプレイに課していた。しかし、コールマンやアーチィ・シェップに感じられるのは、いつまでも俗であるナチュラルな精神性から送られてくる音だ。そのスノッブ性に同胞を覚える。といって俗化することを試みる妥協心はコールマンやシェップ、テイラーの頭にはなかった。
若手のデビッド・マレイも、彼らと同じ範疇。

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