2011年10月31日月曜日

友人

《1979年10月31日(水)》
10月29日(月)、上野11時49分とき11号(特急)に乗車。上越国境をぬけ、越後湯沢へ。長い長い、そして暗いトンネルを抜けると、上越の山なみに囲まれ、雪国の舞台にもなった当地に着く。少し肌寒い風が通り過ぎる。歩くこと10分。高原ロープウエイの駅に着く。ロープウエイから下界をのぞく。静寂な世界が開け、あたりの山脈がにぎやかな街をそっとつつむ。まだ紅葉には少し早すぎたけど、うす紅色の葉が山頂をぬりつぶしている。
町営国民宿舎高原ロッヂに宿をとる。200余名収容の宿に宿泊者はたった2名。さびしい宿だったけど、管理人のあたたかいもてなしと過剰とも言えるサービスにあたたかい一夜を送ることになった。
個室の窓からながめる下界の美しいネオンが一段とさびしさをさそう・・・・・。
10月30日(火)、早朝より研修会。
「全国教育財務担当者研修会」という名の事務研修会。

夕刻、越後湯沢駅のプラットフォームで特急とき○○号を待つ。
周囲が山にかこまれ、初冬の風が肌をつきさす。
さびしい街とのお別れ・・・・・時の流れもこのように。
自覚せずにこのようにすぎさってしまうもの。・・・きっと。きっと。

仕事とは言え、本当に心さみしい旅であった。
知らない街を訪れ、孤独感をあじわった一日だった。

11月上旬までに仕事の整理がついたら、11月下旬頃、旅行をしたいと思っているが、まだ行き先不明です。
まだ一度も、訪れたことのない山陰方面を旅したいと考えています。
(1979/10/31 H.Honda氏ノート)

2011年10月29日土曜日

満杯

《1979年10月29日(月)》
頭の中や、心の中が錯乱状態で、満員になってしまうことがある。
きのうが、そんな日だった。
久しぶりに、外の陽射しの中で機関銃みたいな「Funky Little Queen」を聴かされたせいだろうか。或いは、失調を訴える音楽に、馬鹿にされたせいだろうか。そんなことではなく、1.5Kmほど歩いた生で疲れているのである。あほな、肉体よ。
疲労を自覚しているところに、余計な思惑が送られてきて収拾がつかなくなってしまったのである。みみっちいのかも知れない。すぐ飽和して表現することで、また第三者の介在を認めることで、自分なりの納得をしようとしている。少・汚濁精神が善意風を吹かして流れているのかも知れない。
PA装置が、整っていないことを、棚に上げて自分の口から放り出される、邪推や誤推で、懐疑や猜疑に箔をかけ、おのれの、ほずれを繕うことを棄権していたのではなかろうか。そのへんのところを執着して考えていたら、頭はキリッと冴え痛み、胸はキュッと音するように緊めつけられた。
なぜに・・・・・。

2011年10月27日木曜日

平泉

10月25,26日久々の遠出。妹の提案で、東北の旅に参加。相変わらずの義弟の活躍、運転で、2日間は終了した。
さすが、今年世界遺産登録なった平泉の毛越寺、中尊寺は、深遠、重厚、を表出させ凝視させた。
そして、この時期の紅葉は格別で、雨模様にたたらなければ、見事なグラデーションは更なる釘付けを促す。

2011年10月24日月曜日

客層

《1979年10月25日(木)》
きのうは(1979/10/24)、珍しく女性の来ない日だと話していた。6時近くなっても零で、これは、と変な予感を働かせていた。というのは、何か空気の流れが悪いのではなかろうかと、1人代表して卑屈な気分に浸っていた。度を越して言うと、険悪な雰囲気のように思えたのだ。情けないほど下衆の勘ぐりである。外部の数Kmも離れた地点を右往左往している、或いはもっともっと遠方から送られてくる無邪気な、人泣かせのパルスに依って、沈滞していると思ったのである。その諸々を換気扇によって一掃することは可能だが、あまりに荒療治で無粋。しばらくの間傍観ポーズ。 
Takayamaさんたちテニス部員6人の群れで、殺気、色気乱れて撹拌状態。クリームになり層。逞しき女子たちよ。

2011年10月21日金曜日

看板や

《1982年10月21日(木)》
月曜日に(面接か、職探しか)行ったのは、松戸上本郷のNアート(株)であった。ここは、五反田の葵工芸を想起させた。規模は明らかに葵工芸の方が上である。作業場を見ても、事務所内のざわめきをみても、Aクラス対Cクラスの差はあった。しかし松戸では、ピカ一かも知れない。たまに職業別電話帳なんかの広告のセンスの良さ、大きさなどを見ていて、現実に眼にしたりすると、その落差にがっかりしたりする。もちろん外見や規模の大小でないことは、肝に銘じているつもりなのに、手っ取り早いというか、安易な判断をしてしまう。よくないことだ。と、そうは言っても難しいことだ。
その適例が・・・・・。
昨日(1982/10/20)、野田の職安で紹介を受けた、千葉ビニロン工芸に電話をして面接に出かけた。柏で乗り換え、豊四季で降り、場所を探すうちに、30分余でやっと見つけたところが、印刷所というイメージよりも工場の頑丈さが感じられて行かずじまいで、通り過ぎたまでであった。こうなると、結局は規模よりも業務内容に依るかもしれない。大きい、ビニロンのロールを抱えて印刷するという、その音感に抵抗を感じてしまったのかも知れない。小さな町工場だって、いいと思っているのだが、やはり好ましい仕事をしたいとは考えている。

2011年10月15日土曜日

ジャズの街

 先日(2007/10/06)の横浜は、紛れもなくジャズの街というイメージで、それは昔から今でもしっかり定着している。
そのジャズ・プロムナードのプログラムを見ていて思わぬ名前に出会った。岡田嘉満さん・・・宇都宮をジャズの街として異論はないだろうと?(ファンだから、餃子の街以外の視点がある=もちろん渡辺貞夫さん・・・の)思う。2001年栃木会館ホールで録音された、宇都宮ジャズライブでの若いテナーマンが、彼。流暢に吹奏していた印象が強く、モード曲を快調なテンポにのり、際立っていた。翌2002年の「ラスト・タンゴ・イン・パリ」でも成長を遂げたプレイを披露していた。で、横浜では谷口英治セクステットに名を連ねていた、がそれを聴いていないので内容は把握できないが、プロとして既に活躍しているんだなあと嬉しい気持ち。《2007年10月11日(木)ノート》  (数年のち、つむぎの郷サウンドフェスタ「結城」にてヨシミツさんの演奏に接しました が、何故か思いの丈がしぼみました、世界の広さでしょうか・・・?)

2011年10月12日水曜日

ほこさき

《1982年10月13日(水)》
・・・・・しかし、いろんな世界があると、つくづく思う。そして、この情け容赦のない言葉の往還するところが、いちばん身近でありながら、生死を分別する場所になっているのが辛い。熾烈さが愛の深さを象徴していると言うのなら、直接的反射で応えられるというのに。
もはや、時代は逆行。当初から相容れる土俵などなかったのかも知れない。それを熟知しながら、さぐられていたと邪推したくなる。だから解決するものは、結局 金次第かなと思うわけだ。ぼくの世界は存在性も乏しく否定的だけれども、別の世界では存外、大手を振って罷り通っていると言える。彼らを通底しているものは、金にも似た、僅かな知識から頼れる可能性は大きいが、くくりきれない異質を認める、あるいは放任しておく個立感を持たない。孤立感と書くべきであった。しまいは、どうしたって孤りになってしまうのだ。そこが出発だった筈ではないか。

2011年10月10日月曜日

watarase

横浜(2007横浜ジャズプロムナード=10月6日・土)で俄然火を噴くようなソロをとっていたのは、ピアノの板橋文夫氏だった。彼は栃木県足利出身、有名なアルバムに「わたらせ(渡良瀬)」がある。 と言うわけでもないが、昨日、渡良瀬遊水池に赴いた。春とは少し異なる方向で、汗ばむくらい歩くことが出来た。まだ秋の色合いには早いという気がした。渓谷の流れを見たわけでもなく・・・、谷中村役場跡地や、遺跡の標識をちょっと?見ただけで「わたらせ」の激しいピアノ音を思いめぐらせ、過去の歴史の変えようもない悲惨な事実に、胸がさざめく・・・単なる自己満足の勝手な拡大解釈ですが。 元に戻って、駐車場近くの芝生の公園でみた、花をピンナップ。  《2007年10月11日(木)ノート》

2011年10月6日木曜日

お土産は?

朝霧ジャム・・・なんて、こんなものはないハズですが。夏フェスも終わりで、秋フェスの季節かや?不勉強でこれまで知らずにいたのだが、事実しっかり定着しているイベントに“朝霧ジャム”が存在した。その朝霧高原から今朝方、息子が帰ってきた。キャッチフレーズに「大人のロックフェスティバル」とある。土日の2日間で、初雪化粧の富士山に大きくこだまする賑わいだったのだと思う。 2人の子供が小さい頃(1992年)、朝霧高原近くの、田貫湖にキャンプしました。あれは8月後半で石田純一さん出演番組収録のロケ隊にでくわし、ちょっとしたジャズの生音も聞こえたのでした。 あとでテレビ番組をみかえすと、明らかに‘ちょっとした'感じでした。 《2008年10月6日(月)ノート》

2011年10月3日月曜日

同窓②

《1980年10月2日(木)》
→もう15年以上も顔を合わせていなかったのではなかろうか。中学生の時はバレー部のキャプテンであり、柔和な女性という印象は少なかったからこそ、フラットなイメージが1人の女性の強さを浮かび上がらせるのかも知れない。周囲の4、5人を含めて彼女もぼくも、クラスや学年のleader、co-leaderとして常に連繋を執っていた仲間だから、感激も尚更の域。
数年前、故郷から届いた同窓生名簿に、たしかに守屋中学(誤植)勤務となっていたから、忘れていたけれど知らなかった訳ではない。しかしこの水海道と隣にも拘わらず、ひどく遠い場所で、回顧するに値しない面倒な土地だと一蹴しただけである。
徒らな強がりと、流暢な時間の裂け目に群がることとかが、またたく間に表面化して個癖臭を振り撒いてしまったからである。
それ故、15年以上も経った。
指先で押し広げたブラインドの透き間から、ひょいと突如現れた『絢子さん』に一喜一憂。想い出、俄かに鬱積、好転、暗転、暫時万感。

2011年10月2日日曜日

同窓①

《1980年10月2日(木)》
宇都宮も、拝島も、初台も、そのほか五反田も神楽坂も断片的に、通り魔のように思い出すことはある。懐かしさは殆んどない。それは常に、想像で不確かなものを定着させる決定的な要素がないからである。
同じように、故郷を思い出すことも滅多にない。たとえあっても、地名や人名が瞬時、宙を飛び交うだけである。
ところが先日、久しぶりに気持ちが熱くなった。守谷中学校の昭和53年度の卒業アルバムを見せられて、もしかしたら・・・・・・という素朴な注目がその発端だったのである。
長谷山、平田、椎名、地引、小室と無垢な表情を追っていった。中学生の顔つきは谷田部も、伊奈も、水海道も皆な同じだ。いちように、冒しきれない ためらいを持っている。
眼鏡をいともたやすく身につけて堂々の正視を、カメラのレンズに向けて、『大泉さん』(先生)は無言のサインを送った。ぼくは似ていると思った。どこかで見たことのある顔というよりも、知っている 人によく似ていると思ったので、再び『大泉』という文字を朗誦して蓄えた。アルバムの後部の住所録をたしかめたのである。
『絢子』という明朝活字を見つけて、ぼくはGAAAH・・・N!となった。店の中は、MUSEの中は、ただカセットテープが、音の流れを変えているぐらいの落ち着きを見せて、1人で興奮している。ぼくに、懐かしさへの、自然な招待状を置いていってくれたのである。
『絢子さん』と言うべきかも知れない。20年近くも昔の、小学生、中学生に舞い戻って、口蓋締めて、ふとつぶやいてみる・・・Hayashi Ayako・・・と。その懐かしさのフレーズは、喉もとを通り、胸底に熱い想いを、いっきに膨らませてくれた。絶句・・・・・☆。      (→続く)