じとじとした雨模様の夜に、女の客が静かにやってくる。あがったばかりの雨が、淡い街灯りにてらされて、乱れてアスファルトに濡れている。そんな夜だ。
ぼくの顔をじっと見ている。とっさに想い出せない。知り合いだったことは、確かなのだけれど、過去の原形を越えている。
音をきいて、原形の声であることが認められた。
愛想をこめて
「見ちがえるほどだネ」
と言った。
(ヒゲのことを言った返事なんか、どうでもいい・・・・・)
見ちがえるように変わっていく生活観念が、その時、しばし垣間見えて、ただの喫茶店の主になって、世辞を吐いたつもりなのである。
しかし、愛想も世辞も、乾ききった肉と精には、無邪気な、ひとしずくのようであった。
ふと、気になり、ストローから吸いあげている口もとを見た。まちがいもなく、それはぼくの知り合いだった。
侵略者の唇を赤く見せて、汲みあげている喉もとのポンプに、愛しさがふくれあがった。
もう過去の原形など、どうでも良かった。重ね合わせて想い出している脳の猥雑さが、やけに罪深く感じられた。
平静界に引きこまれようとした瞬間、ストローの中途まで上っていたコーヒー色の液体が、女の口もとから解かれて、一気にグラスに落ちていった。
背中に、冷たい汗が塗られるのを覚えた。
なんて、女だ!
感嘆符を胸ん中で、溢れさせて、こわくなっていた。
「いくらになりますか・・・・」
女は、椅子から腰をあげるところだった。 《1980年7月12日(土)ノート》。

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