《1982年4月20日(火)》
決断を要する時が来る。これまでも、そんな時はあったに違いないのに、自身の器量によって、なだめすかしてきた。あくまでも、それは自分の器量だから、第3者的判断では、去就が定まっていた時であったかも知れない。他人は、それを優柔不断と称する。外面的には批判は適格だが、個々のもつ特異な性格の成果を無視している。
去就という言葉について考えてみると、人間の生涯なんて、得るか、失うかのどっちかだろうと思う。打算を除外すれば、出会いの1語に尽きるだろうか。契機に瞬時立ち会って、無腰のままの、潔い判断は、哲人であっても出しにくいであろう。打算とまではいかなくても、寒風の中で着衣を剥がれるような苦境に陥ることは必至だ。
いま、世の中を支配しているのは、巨大なデッキだ。個々それぞれは再生され、回転しているに過ぎぬようだ。狭視的に捉えても、再生専用デッキのごとく生きているように見える。しかし、再生でも能力が備わっていれば相応の生き様は可能。
好きなものを発見したとき、自の努力で苦もなく熱することは出来る。単純な再解釈は可能だけれど、熱したものを鍛えあげる表現力は誰にでも可能だとは、言えない。そそのかすというか、おだてあげるというか、応援されるものも、必要である。そのものは、人であったり、知識であったり、自身を愛でる心であったりであろう。
決断を要する時が来る。これまでも、そんな時はあったに違いないのに、自身の器量によって、なだめすかしてきた。あくまでも、それは自分の器量だから、第3者的判断では、去就が定まっていた時であったかも知れない。他人は、それを優柔不断と称する。外面的には批判は適格だが、個々のもつ特異な性格の成果を無視している。
去就という言葉について考えてみると、人間の生涯なんて、得るか、失うかのどっちかだろうと思う。打算を除外すれば、出会いの1語に尽きるだろうか。契機に瞬時立ち会って、無腰のままの、潔い判断は、哲人であっても出しにくいであろう。打算とまではいかなくても、寒風の中で着衣を剥がれるような苦境に陥ることは必至だ。
いま、世の中を支配しているのは、巨大なデッキだ。個々それぞれは再生され、回転しているに過ぎぬようだ。狭視的に捉えても、再生専用デッキのごとく生きているように見える。しかし、再生でも能力が備わっていれば相応の生き様は可能。
好きなものを発見したとき、自の努力で苦もなく熱することは出来る。単純な再解釈は可能だけれど、熱したものを鍛えあげる表現力は誰にでも可能だとは、言えない。そそのかすというか、おだてあげるというか、応援されるものも、必要である。そのものは、人であったり、知識であったり、自身を愛でる心であったりであろう。

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