《1980年5月27日(火)》
先月(1980/04)の末から、柴田錬三郎の「剣は知っていた」を読んでいて、この前やっと済んだ。前に五味康祐のことを記したことがあるが、時代小説とか剣豪小説とかいうものを、わりと偏見を持たずに読めるほうである。
MUSEに来る人の殆どは、そうした読み物風の小説には無縁だとは思うけれど、漢字の表す時代性と、シチュエイションの考証性にためらいがなければ、案外平気で楽しく触れられる気がするけれど、無理な注文かな。
「剣は知っていた」は、安土桃山期の相模辺をベースにした痛快篇だ。実は他愛もないくらいの変化自在さであるが、主人公の眉殿喬乃介と徳川鮎姫との純真一徹な慕いあいように、涙をせがまれる。結局は大団円を描いて結する。
現代の多彩な風潮から推せば、時代錯誤も甚だしいというきびしい叱言を多く受けそうな気がするが、本当に愛すべきものに出会った時の、一大事な感傷度は、どこの世界にも共通しているのではなかろうか。
こういう小説を読むというのは、年代的な特権かも知れぬし、ノンフィクションに直截性を感じてほんのすこし抵抗を覚える、生身の訓話に事実性を疑ってしまう、猜意の持ち主には格好の講談である。といって芸術性が皆無だなどと言うのではない。
アクティヴな行動よりも、ポジティヴな精神を初めに見つめることを・・・・・書いていると、ぼくは思う。涙が湧きました。作品の良し悪しはともかくとして、涙が出るのはぼくの脆さだが、「兎の眼」「太陽の子」(灰谷健次郎)以来のことです。
先月(1980/04)の末から、柴田錬三郎の「剣は知っていた」を読んでいて、この前やっと済んだ。前に五味康祐のことを記したことがあるが、時代小説とか剣豪小説とかいうものを、わりと偏見を持たずに読めるほうである。
MUSEに来る人の殆どは、そうした読み物風の小説には無縁だとは思うけれど、漢字の表す時代性と、シチュエイションの考証性にためらいがなければ、案外平気で楽しく触れられる気がするけれど、無理な注文かな。
「剣は知っていた」は、安土桃山期の相模辺をベースにした痛快篇だ。実は他愛もないくらいの変化自在さであるが、主人公の眉殿喬乃介と徳川鮎姫との純真一徹な慕いあいように、涙をせがまれる。結局は大団円を描いて結する。
現代の多彩な風潮から推せば、時代錯誤も甚だしいというきびしい叱言を多く受けそうな気がするが、本当に愛すべきものに出会った時の、一大事な感傷度は、どこの世界にも共通しているのではなかろうか。
こういう小説を読むというのは、年代的な特権かも知れぬし、ノンフィクションに直截性を感じてほんのすこし抵抗を覚える、生身の訓話に事実性を疑ってしまう、猜意の持ち主には格好の講談である。といって芸術性が皆無だなどと言うのではない。
アクティヴな行動よりも、ポジティヴな精神を初めに見つめることを・・・・・書いていると、ぼくは思う。涙が湧きました。作品の良し悪しはともかくとして、涙が出るのはぼくの脆さだが、「兎の眼」「太陽の子」(灰谷健次郎)以来のことです。



