《1982年1月28日(木)》
友だちという類は、数多くいても、これが親友となると別だろう。そしてその扱いようも違うのだ。多くの隣人は、社会を形成しているだけに過ぎないが、親友となると社会的な構成を離れて、肉親以上の近づきをもって迫ってくる。だから大切にしなくちゃならないのだ・の論理が生じる。特別視してのはからいだと思うが、そうしなくちゃならないと感じるのは、親友という関係によって別種の負担が生まれるからであろうか。負担は何も親友ゆえに許される産物ではない筈なのに、それを社会の必要性のように、サディスティックに喜んだりする。虚飾というか。形式主義というか、そのへんの考え方には、合流できない、姑息な利己主義に、自らがはまっているのだろうか。
権威とか、支配するとかの表現によって利害関係が息づき、その結果、頼りを欲し、へつらう気持ちを孕ませるのかも知れない。
友だちという類は、数多くいても、これが親友となると別だろう。そしてその扱いようも違うのだ。多くの隣人は、社会を形成しているだけに過ぎないが、親友となると社会的な構成を離れて、肉親以上の近づきをもって迫ってくる。だから大切にしなくちゃならないのだ・の論理が生じる。特別視してのはからいだと思うが、そうしなくちゃならないと感じるのは、親友という関係によって別種の負担が生まれるからであろうか。負担は何も親友ゆえに許される産物ではない筈なのに、それを社会の必要性のように、サディスティックに喜んだりする。虚飾というか。形式主義というか、そのへんの考え方には、合流できない、姑息な利己主義に、自らがはまっているのだろうか。
権威とか、支配するとかの表現によって利害関係が息づき、その結果、頼りを欲し、へつらう気持ちを孕ませるのかも知れない。

